想像力について思うこと/見えているものが全てではない

皆さんこんにちは。harachanです💌

今日は、私が最近ちょっともやっとしている事を等身大にお話ししていきたいと思います。


最近よく考える「想像力」の話


最近「想像力が足りない人が増えたな」とよく思うんですよね。


機械化やAI化が進んで、便利になったことはたくさんありますが、

どんな仕組みの裏側にも、いつだって必ず「人」がいる。

それを、つい忘れてしまっている人が多いように感じるんです。


もちろん、すべてを知ることなんてできません。

私たち人の目は2つしかないし、立てる場所にも限界がある。

だから見えないことがあるのは、当然だと思うんです。


でも、「知ろうとする努力」まで手放してしまっていいのかというと、私はそうは思えなくて。

仕事はひとりでは完結しない


最近、職場でこんな話を耳にしました。


部署が分かれているなら、その部署の中で仕事は完結している。だから他部署のことまでは認識していない


その考えを聞いたとき、私はちょっと「うーん」と考え込んでしまいました。

だって、どんな仕事も、自分ひとりで完結するものなんてないはずだから。


誰かが別の場所で、別の役割を担ってくれているから、自分の仕事が“何事もなく回っている”。

私は、仕事ってそういう積み重ね、繋がりだと思っているんですよね。


だから

「他部署の仕事=自分には関係ないから知らない」

という姿勢や在り方は、私個人としては”NO”なんですよ。


細かいことまでは分からなくてもいい。全部を理解できなくてもいい。

でも、知ろうとする姿勢、理解しようとする姿勢だけは、持っていたいなと思うんです。

画面の向こう側を想像できているのだろうか


この感覚は、SNSを見ていてもよく感じます。

ここ数年で、必要以上に誰かを叩いたり、誹謗中傷を投げつけたりする光景を、目にすることが増えましたよね。


ニュースやメディアで流れてくる情報を見て、「それはおかしい」「許せない」と感じること自体は、自然なことだと思います。(私もよく思います)


でも、絶対に忘れてはいけないこと。

それは、

「私たちが見ているのは、いつだって断片的な情報だ」ということ。


画面に映っているものが、その人や出来事の“すべて”ではないんです。


仮に、明らかによくないことをした人がいたとして。

その人を強く責め立てることで、本当に救われるのは誰なんだろう、と考えてしまうんです。


被害者を守るためのはずの言葉が、結果的に、被害者をさらに苦しめてしまうこともある。

加害者への攻撃が激しくなることで、別の形の痛みや傷が生まれることだってある。


誰かを「悪だ」と裁く前に、

その先で何が起こるのかを想像できているだろうか。

自分が見ている世界が、全てだと思っていないだろうか。

そんな問いかけが、最近の私の中にはずーっとあります。

知ろうとする力、想像力が優しさを生む


「知らない」ということ自体が問題なんじゃなくて、

「知ろうとしない」「想像しようとしない」ことが、少しずつ、私たちの世界を、社会を歪ませているような気がしていて。


かといって私ができることは何もなく。

ただ私は、私を生きるしかない。


だから私は今日も、

完全じゃなくてもいいから、一歩だけでもいいから、

”自分のいるその先”を想像する側でいたいなと思っています。


みなさんも同じです。

皆さんができることは、ただ皆さんそれぞれの人生を生きること。


本当にただそれだけです。

誰かを救おうとか、みんながみんな、思わなくていい。


でも、

自分以外の人のことを知ろうとする心だけは失わないように。

想像力をちゃんと良い方向に使って、優しく繋がっていけるように。


そんなことを思っている、今日この頃です。



それでは、今日はこんなところで終わろうかと思います。


これからもこんな感じで、”日常の気づき”をゆるっと書いていきます✍️

みなさんの毎日が、ちょっと楽に、身軽になりますように。


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harachan


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